■ impossible desire
捜査会議に向けて資料に目を通していた室井は、眉間に皺を寄せて資料を睨んでいた。
「婦女暴行、強姦、強盗、恐喝、詐欺……まあ、よくもこれだけ色んな悪事が働けるもんだな」
感心したように溢したのは捜査一課課長の一倉だった。
管理官の室井とは同期である。
「…不謹慎だぞ」
内心同意したい気分だったがそういうわけにもいかず、捜査資料から視線を反らし代わりに一倉を睨んだ。
「褒めてんじゃない、呆れてんだ」
一度悪事を働くと箍でも外れるんだろうなと肩を竦める一倉に、室井は溜息を吐いた。
一倉の言う通り、資料を見た限りではかなりの悪人だ。
これが被疑者なら、警察官になろうというくらいの正義感を持ち合わせた捜査一課の捜査員たちの士気も上がるはずだが、残念ながら被疑者ではない。
世田谷のビジネスホテルで射殺されていた男の身元を調べた結果、出てきた事実だった。
男の周囲の連中に、恨みを持つ人間の多いこと多いこと。
また、男の自宅から、脅迫のためのビデオやテープ、写真や証書などが山ほど押収された。
容疑者はその数だけいたが、現在身元が分かる容疑者の全てにアリバイがあり、手詰まりの状況であった。
「捜査員のやる気も、これならでないわな」
「そんなことを言ってる場合か。殺しは殺しだぞ」
「だが、許すまじ犯人!とは思えないだろ、これじゃあ」
他人事のような一倉の言葉に、室井は痛む額を押さえた。
一倉の言う通り、捜査員の熱意がいまいち上がらないのは確かで、それが少なからず捜査に影響を及ぼしていた。
気持ちは室井にだって分かる。
室井だって人間だ。
被害者の男が死んだことで救われた人間が山ほどいる事実を鑑みれば、一概に見えてこない被疑者を恨むことができない。
だが、室井たちは警察官なのだ。
あらゆる犯罪を許してはならない。
殺しなど、もってのほかだ。
「分かってるよ、もちろん犯人逮捕には全力を注ぐべきだからな」
苦悩している室井に苦笑して、一倉は室井の肩を叩いた。
「いっそ、天罰でも下ったんならいいんだけどな」
―それで片付けばどんなにいいか。
そう思わなくは無いが、それではなんのための警察か。
なんのための法律か。
室井は深い溜息を吐いた。
特に進展の見られない捜査会議を終え、室井は担当の所轄を出た。
既に定時を大幅に回っているから本庁に帰る必要はない。
駅を出て、重たい足取りで自宅に向かう。
真っ直ぐ前を見ていた室井だが、ふと視線が一ヶ所で止まる。
駅からの帰り道にある、小さな花屋だった。
ずっと前からある花屋だが、三ヶ月前から店員が変わっていた。
室井が何故そんなことを知っているかと言えば、花が大好きで花屋に通い詰めているからではなかった。
室井が店の前に通りかかると、中で一人の青年が椅子に座り、小さな花束を作っているのがガラスのドア越しに見えた。
人影に気付いたのか、青年が顔を上げた。
室井の顔を見ると、にこりと笑って立ち上がる。
近付いてくる青年を見ながら、室井はドアを開けた。
「こんばんは」
「こんばんは、室井さん。仕事帰り?」
時計を見ながら、青年―青島が言った。
「毎日遅いですね」
「君だってまだ働いてる」
「まぁ、そうっすけど」
苦笑しながら、青島はさっきまで自分が座っていた椅子を室井に差し出してくれる。
そうしながら、自分はだらしなくレジカウンターの上に座った。
客が誰もいないからいいのだろう。
室井は礼を言って、差し出された椅子に腰を下ろした。
時間があれば、こうしてこの花屋で寄り道をして帰るのが、最近の日課になっていた。
出会いは少し前。
店先で酔っ払いに絡まれていた青島を、室井が助けたところから始まる。
助けたと言ったって、警察手帳を見せれば大人しくなるような酔っ払いだったから簡単なことだったし、警察官として室井は当たり前のことをしただけだった。
が、いたく感謝してくれた青島にコーヒーに誘われ、この場所でお茶をしてから、青島との付き合いが続いている。
それには、青島の人懐っこい性格が大きな原因になっているが、なんにせよ室井はこの青年を嫌いではなかった。
自宅のすぐ傍で寄り道をして雑談をして帰る程度に、気に入っているといえる。
「警察って、労働基準法適用されてないんですか?」
青島が冗談っぽく言うが、室井は真顔で答えた。
「適用されないわけはないが、時間外だからって捜査を止めるわけにもいかない」
生真面目な返事がおかしかったのかちょっと笑って、青島は頷いた。
「ま、そりゃ、そうでしょうけどね」
「君こそ、こんな時間まで店を開けてて、花売れるのか?」
「酔っ払いがホステスさんに花買いに来たりはしますよ」
「そういえば、あの時の酔っ払いは、あれから来てないか?」
初めて会ったとき、青島に絡んでいた酔っ払いのことだ。
逆恨みでもしてお礼参りにでも来てないかと心配すると、青島はにっこり笑った。
「大丈夫大丈夫、あれから一度も見ませんよ」
室井さんがしょっちゅう来てくれるしね、と言われてそれもそうかと思う。
仕事帰りとはいえ、警察官立ち寄り所かと思うくらい室井が立ち寄っていのだから、安全と言えば安全かもしれない。
だが、しょっちゅう来ているという事実に、良くない面も見つける。
「…仕事の邪魔ではないだろうか?」
眉間に皺を寄せて尋ねると、青島は瞬きを繰り返して微笑んだ。
「何言ってんの。引き留めてんの俺っすよ?」
その笑顔に体温が少し上がった気がする。
青島から感じられる好意が、なんとなく嬉しかった。
「そうか」
「そうですよ」
「何してたんだ?」
唐突に話しを変えたが、青島は笑いながら付き合ってくれた。
「売れ残った花を短く切って、小さい花束作って、安く売るんです」
短く切ると水上がりも良くなり、少し持ちが良くなるのだという。
青島はカウンターから降りると、説明しながら手を動かし始めた。
「今日の材料はスプレーバラとかすみ草とルスカスです」
室井もかすみ草くらいは分かる。
バラの種類までは分からないが見ればバラかどうかは予想がつき、緑の葉っぱは名前を聞けばそれがルスカスなのだと判断がついた。
つまり説明されても良く分からないということだが、青島の器用に動く手を見るのは好きだった。
室井には良く分からないが可愛らしくアレンジして、薄茶色の紙でくるくる巻いて、リボンでまとめて出来上がりらしい。
「ん、かわいい」
自画自賛する青島に、室井は思わず小さく笑みを溢した。
青島と一緒にいると、いつも仏頂面な室井も表情が柔らかくなることがある。
残念なことは、それを本人が気付いていないことだ。
自分の顔など見えやしない。
「室井さんもやってみる?」
青島がスプレーバラを差し出してくるから、室井は目を剥いて首を振った。
「無理だ」
「そう?簡単ですよー」
「いい、勿体無いからいい」
折角キレイなのに勿体無いと言うと、青島はちょっと笑って鋏を握った。
スプレーバラの茎を足元に置いたバケツの中で切り落とす青島の手元を見ながら、室井はふと思い立ったことを聞いてみた。
「君は事件の話しとか、聞いてこないな」
青島はきょとんとした。
室井が警察官だと知ると、事件や捜査の話を聞きたがる人間が多い。
野次馬根性と言えば聞こえが悪いが、程度の差はあれ好奇心が湧くのはある程度仕方のないことだとも言えた。
もちろん、聞かれたって室井が答えられるわけもないが、全く聞いてこない青島というのも不思議な存在だった。
好奇心がないとも思えない。
青島は肩を竦めた。
「そういうのって、守秘義務って言いましたっけ?あるんでしょ?」
「そうだが」
「聞いたら、室井さん困るでしょ?」
ちらっと視線を向けられて、室井は素直に頷いた。
「興味ないことはないですけどね…」
薄く笑いながらまた、視線を手元に戻した。
「でも、そんなこと聞くために、室井さんとこうしてるわけじゃないから」
独り言のように呟く青島の声に、なぜか室井の心臓が跳ねる。
どういう意味だろうかと考えて、深い意味などあるわけがないと思った。
そう思ったら、深い意味ってなんだと思って、顔が熱くなった。
「…室井さん?」
青島がまた室井を見た。
首を傾げるような仕草をする青島に、なぜか居心地悪くなり室井は腰を上げた。
「今日はそろそろ失礼する」
急ではあったが、時間が遅いせいか、青島は納得したように頷いた。
「あ、そうっすか〜、気をつけて」
帰ろうとする室井に付き合って、青島も一緒に表まで出てきてくれる。
その手には、一つの小さな花束があった。
「これ、持ってってください」
差し出されて、室井は目を丸くした。
「でも、売り物だろ?」
「花嫌い?」
「いや、嫌いじゃないが…特別好きでもないが」
花屋に向って言うにはバカ正直すぎる言い草だったが、青島は気分を害したふうもなく、むしろ嬉しそうに笑った。
「なら良かった。室井さんの部屋に、置いてあげてください。花のある風景も悪くないですよ」
それは室井も知っていた。
青島の店に立ち寄るようになって、それを知った。
花の名前など知らないし、覚えようという気持ちもなかった。
だけど、そこにあれば、視界が明るくなるものだと思った。
「……ありがとう」
室井は躊躇ったが結局素直に受け取った。
またニコリと笑われて、少しだけ心臓が跳ねた。
室井の心臓は青島に反応する仕組みになっているらしい。
「また、寄ってってくださいね」
「ああ…じゃあ、また」
挨拶を交わして、室井は今度こそ自宅に向って歩き出した。
青島は三ヶ月前からそこにいるらしい。
室井がそれを知ったのは、一月ほど前。
青島を助けた時に、青島とした雑談で聞いたのは簡単な身の上話だった。
花屋の元の店主が青島の育ての親で、親が引退するというから跡を引きついだのだという。
「親孝行なんだな」と言ったら、青島はちょっと笑って「俺には花屋しかできないから」と言った。
室井はその言葉を真に受けず、照れて誤魔化しただけだろうと思っていた。
彼の何を知っているわけではない。
ただ仕事帰りにふらりと立ち寄って、どうでもいい話をして帰るだけだ。
室井は彼の下の名前すら知らない。
それでも、その手先が器用であることは知っている
室井のような仏頂面の男にも、柔らかく接してくれる度量の持ち主であることを知っている。
笑顔が、明るく暖かいことを知っている。
室井にはそれで充分だった。
港区のマンションで射殺体が発見された。
世田谷のビジネスホテルでの殺人事件があってから一月しか経っていなかった。
「下から情報が上がってきたぞ」
一倉が室井の机に資料を投げて寄こす。
残念なことに捜査一課に持ち込まれる殺人事件は少なくないが、射殺体が発見されることはそう多くない。
こう続くと不気味である。
世田谷の事件も解決できていないため、室井の眉に憂鬱そうな皺が寄った。
「同一犯の可能性は」
「前回はライフル、今回は拳銃だから、武器は違うな」
「それだけじゃ、判断できない」
「いまんとこ、今回の被害者と世田谷の被害者に接点はなさそうだぞ」
どちらも男性ではあったが、年齢も離れているし仕事も全く違う業種で、初動捜査の段階では知人でもなさそうだった。
無差別殺人と考えるよりは、今回の殺しは別件と考える方が良さそうだった。
「日本もいよいよ銃社会かね」
「のん気に言ってる場合か」
「切実に言ったって、のん気に言ったって、現実は変わらんよ」
もっともだが、一倉が口にするとどうも不謹慎に聞こえる。
だが無駄口を叩ける分、一倉の方が冷静な気もして、それ以上一倉に文句を言うのをやめた。
渡された資料に目を通す。
殺されたのは都内の会社に勤める会社員だった。
事件現場になった自宅は荒されておらず、金品も手付かずで強盗ではなかった。
第一発見者は被害者の妻で、友人と旅行から帰ってきて夫の遺体を発見したらしい。
夫婦の間に子供はいないが、隣人や友人たちの証言では、夫婦仲は良好。
被害者の会社での勤務態度は真面目で、上司や同僚の評判も良かった。
聞き込みした友人知人からは「何故彼が」と沈痛な疑問ばかりだったらしい。
だからといって、殺される理由がないとは限らないが。
「被害者の周囲をもっと洗ってくれ」
「了解」
素直に応じてから、肩を竦めた。
「容疑者が全く浮かんでこないというのも気持ちが悪いな」
旅行に出ていた妻には、死亡推定時刻に完璧なアリバイがある。
被害者に恨みを持っていると疑われる人間は今のところ皆無。
不審人物の目撃者も出てきていない。
「…捜査員を増やして、聞き込みするしかないな」
「情報がないことにはどうにもならんからな」
一倉は頷くと、捜査一課を出て行った。
それを見送って、室井は一つ溜息を吐き、また捜査資料を睨んだ。
「あ、また、暗い顔してる」
花屋を覗いたら、出迎えてくれた青島が苦笑した。
室井は既に寄っていた眉間の皺を更に深くして、頬を強張らせた。
「そんなことはないが」
「ありますって」
鏡見ます?とは青島の冗談だったのだろう。
笑いながら椅子を勧められて、室井は少し力を抜き礼を言って腰を下ろした。
青島に会うと、不思議と力が抜けた。
懐っこい笑顔や、優しい人当たりがそうさせるのかもしれない。
それを望んでここに通っているのだとしたら、室井はやはり疲れているのかもしれない。
好きで選んだ道、望んで得た仕事だったが、人の死と毎日向き合っていると疲れもするし、麻痺してくるところもある。
一々感情移入していたのでは捜査にならないが、人の死をただの記号化にはしたくなかった。
「室井さん、ケーキ食べません?」
青島が唐突に言い、室井は目を丸くした。
「…こんな時間に?」
思わず聞き返すと、青島は苦笑した。
「疲れた時には甘いモノっすよ」
どうやら気を使ってくれているらしい。
室井がすぐに反応を返せずにいると、青島は肩を竦めた。
「まあ、無理にとは言いませんけど。こんな時間だし」
室井の言葉を繰り返す青島に、室井はちょっとだけ笑った。
「貰おうか…」
食べたいと思ったわけではないが、それが青島の好意なら受け取りたいと思った。
そんな室井を伺うようにじっと見つめてくる青島に、室井は頬を引き攣らせた。
「別に、無理はしてないぞ」
思わず言い訳じみた言葉を口にすると、青島が笑みを溢した。
「はーい、じゃあ、今持ってきますね」
店舗から自宅に繋がるドアの向こうに青島の姿が消える。
室井はそれを無意識に目で追っていた。
青島が用意してくれたのは、イチゴのショートケーキとコーヒーだった。
「ありがとう」
「いえいえ、作業台ですいません」
青島が申し訳なさそうに言う。
テーブルがわりに作業台を借りていた。
「いや…それより、仕事の邪魔じゃないか?」
今更だし、青島の店が開店中である以上、邪魔でないはずもない。
だが、青島は迷惑そうな顔はしない。
ニコリと笑いさえする。
「全然。ご覧の通り、暇なんです」
肩をすくめて、青島も丸椅子を持ってきて、適当に腰を下ろした。
「室井さんのおかげで、退屈しませんよ」
微笑まれて、室井は眉間に皺を寄せて視線をそらした。
時々、彼の笑顔が直視できなくなる。
何かが耐えがたい。
不愉快なわけではないが、心のどこかに重たく感じる。
理由は分からない。
何故だろうかと真剣に考えようとしないから、分からないのだ。
室井には考えるなければならないことが山ほどある。
だから余計なことを考える隙がない。
それが理由の全てではないことを、なんとなく感じていた。
だが、それすら深く考えたりはしない。
考えてはいけない気がした。
「…ケーキなんか、久しぶりに食べる」
室井はケーキを口に運んだ。
甘すぎない優しい甘味が口に広がる。
甘いものを好んで食べることはあまりないが、このケーキは素直に美味しいと思えた。
「悪くないでしょ?」
青島がニコリと笑うから、室井も頷いた。
「美味い」
「良かった!ここのケーキはあんまり甘くないし、サイズも手頃だから、たまに買って食べるんです」
ケーキが好きなのだろうかと思って、青島なら一緒に食べる相手くらいいるのだろうとも思った。
「一人なのについつい買いすぎて、いつも余っちゃうんですよね」
だから室井さんに食べて貰えて良かったと言う青島に、室井は顔を強張らせた。
ホッと安心した自分に気付いて、嫌な気分になる。
誤魔化すようにフォークを動かすと、青島が室井の顔を覗き込むような仕草をした。
「室井さん」
驚いて、室井の背が幾分反る。
「な、何だ?」
「大分お疲れ?なんかやっぱり表情暗いですけど…」
心配そうに青島が眉を寄せるから、室井は自分の頬をなぜた。
「そんなことはないが」
室井はいつも、いくつもの未解決の事件を抱えている。
次から次へと生まれてくる犯罪に際限はないが、それらを解決するのが室井たちの仕事だ。
ただ、今回のように進展のない事件を抱えていると、精神的に追い込まれてくるのも事実かもしれない。
「捜査、大変すか?」
遠慮がちに、青島が聞いてくる。
大変でないわけではないが、愚痴を言っても仕方がない。
行き詰まっている捜査に頭は痛いが、頭を悩ませるのも室井の仕事だ。
「大変じゃない仕事はないだろう」
「ワイドショーで見ました。世田谷の発砲事件の被害者の話し」
室井は手を動かしながらちらりと青島を見た。
「随分、性質の悪い人だったみたいですね」
「性質が悪いという言葉では済まされない、犯罪者だった」
「その男に苦しめられた人間がいっぱいいたんだ」
「そうなるな」
青島と事件の話しをすることは珍しい。
青島が聞いてはこないから、もちろん室井も話題に上げたことがない。
珍しいとは思ったが、好奇心で聞いているわけではなさそうに見えたのは、青島が淡々としていたからか。
不意に青島がぽつりと呟いた。
「悪人が消えることは悪いことですか?」
意外な台詞に、室井は目を剥いた。
「もちろん殺人は悪いことです。それを正当化なんてできない」
青島は強くそう言ってから、気まずそうに室井から視線を逸らした。
「でも、その男がいなくなることで救われる人がいるなら…」
「青島」
青島は意外と正義感が強いのかもしれないと思いながら、室井はやんわりと口を挟んだ。
「そこにどんな事情があっても、人を殺すという行為は犯罪なんだ」
室井だって人間だから、今度の事件のような被害者に同情を覚えることはない。
青島の言う通り、被害者が消えることで救われた人間がいるのも事実だ。
だからといって、この犯罪を許せるわけではない。
許してはいけない側の人間なのだ。
「裁くのは法律であって、他の誰でもない」
事情があれば人を殺めてもいい、そんな法律はどこにもない。
「誰かであってはいけないんだと思う」
命を持って裁く権利は、誰にも持ち合わせていない。
室井の目を真っ直ぐに見つめて、青島は笑みを浮かべた。
「…そうですね、室井さんの言う通りだ」
少し寂しそうに見える笑顔。
何か青島を傷つけるようなことを言ってしまっただろうかと不安になる。
「青島…?」
「室井さん」
ふっと真顔で室井を見つめ、そしてまた笑った。
「口の端に、生クリームついてる」
青島が指先で自分の唇の端を軽く叩いたから、室井は赤面した。
慌てて手で拭う室井に、青島は可笑しそうに笑った。
「かわいいな、室井さん」
言われて、目を剥く。
益々顔が赤くなり、眉間に皺が寄った。
赤ら顔でむっつりしている室井に、青島は謝りながらも笑ったままだった。
―ほんじなす。
心の中でお国訛りで罵りながらも、室井は青島の寂しそうな笑顔を反芻していた。
じゃあまたと室井を送り出すと、青島は店先で閉店準備をしながら密かに室井の後姿を眺めていた。
真っ直ぐな後姿が遠ざかっていく。
一度も振り返らない。
もう、何度もこうして見送っているが、彼が振り返ることはない。
振り返ることの無い真っ直ぐな背中を、好きだと思った。
―好きだと思っても、どうしようもないけどね。
苦笑しながら、青島は室井の背中が見えなくなるまで待って、店の中に戻った。
内側から鍵をかけて、電気を落とす。
外の明かりが差し込んで薄明るい店内を見渡し、さっきまで室井が座っていた椅子に腰を下ろして溜息を吐いた。
エプロンのポケットに入っていた煙草を取り出して咥える。
煙を吐き出す横顔は、室井には見せない顔だった。
人を傷つけ、奪い、騙し、脅して、それでも平気で生きている人間がいる。
死が当然の報いの人間もいると、青島は思っていた。
だが、それが事実でも、自分がしていることは正しいことではない。
それも理解している。
自分の行為を正当化する気は元々なかった。
室井の口から聞きたかったのは、自分の行為を否定する言葉。
自分の存在を否定する言葉。
「なんで、室井さんが刑事かなぁ」
自分で吐き出した煙を眺めながら、青島は薄く笑った。
室井が刑事でなくたって、青島の手が汚れている以上、絶対に室井は青島のものにはならない。
本当の青島を知れば、室井は青島を嫌うだろう。
青島が青島である以上どうしたって、室井に好かれるはずもない。
それは分かっているが、室井との間にある優しい関係を失いたくなかった。
室井を騙していることにも、自分の汚れた手にも、時々我慢ができなくなる。
室井を好きになればなるほど、自分を嫌いになる。
それでも、今はまだ、室井を失う勇気が無い。
仕事帰りに気まずそうに現れる男を待つ、優しい日々。
そんなものが永遠に続くわけが無い。
そんな資格は、青島にはない。
それでも。
「できるだけ…少しでも長く……一緒にいられたらなぁ」
呟く声は、小さく弱かった。
自宅の鍵を開けて部屋に入ると、電気をつける。
見慣れているはずの自宅が殺風景に見えるようになったのは、青島の花屋に寄ってから帰ってくるせいか。
特別興味もなかったが、毎日のように沢山の花を目にしていると、自分の生活がモノトーンのような気がしてくる。
別にそれが気に入らないわけではない。
ただ、モノトーンの自分の生活の中で、青島の花が、青島自身が妙に鮮やかなに見える気がした。
スーツを脱ぎネクタイを緩めながら、ぼんやりとしていた視界の隅に桃色が掠める。
テーブルの上に、先日青島から貰った花を飾ってあった。
花瓶などないから、適当なサイズのグラスに活けてある。
短く切ると元気になると言っていたが、確かに桃色のスプレーバラはまだまだ元気だった。
「…俺みたいな男に、よくも花束なんか」
くすりと笑う。
自分でも似合わないと分かっている。
それなのに、くれた青島が可笑しい。
青島から貰った花を見ていたら、青島の笑顔を思い出した。
笑顔を思い出したら、少し心臓が跳ねた気がして、眉間に皺を寄せる。
青島を思い出すと、時々心が温かくなり、時々心臓が痛くなる。
室井は花から視線を逸らし、着替えることに専念した。
何故だろうと、いつまでも考えずにいられるだろうか。
室井が自分を誤魔化しきれなくなる日も近いかもしれない。
青島ともっと親しくなりたい。
近付きたい。
室井の中にそういう思いが確実にあった。
数日後。
ケーキのお礼にと食事に誘うと、青島は一瞬困った顔をした。
だが、すぐに嬉しそうに笑ってみせた。
その笑みがどこか寂しそうだったが、室井が気付くことはなかった。
END
2008.1.29
あとがき
伊月様リクエスト、「スナイパー青島君と刑事室井さん」でした。
どこが!?とか思っても、心の中に納めておいて頂けると嬉しいです;
ご協力のほど、なにとぞ宜しくお願い致します(土下座)
本当は「恋人はスナイパー」みたいなコメディーが書きたかったのですが、
全く違うお話になってしまいました。
(あのドラマも映画はシリアスになってましたけど;)
プロローグ的なお話ではありますが、このお話はこれにて終了です。
薄ぼんやりしたお話でしたが、お付き合いくださった皆様、
有り難う御座いました!!
…どうでもいいですが、
青島君が花屋さんという設定は、気に入っていたり(笑)
いつかそんなパラレルを書きたいなぁ。
伊月様、かなりお待たせした挙句、
中途半端なお話になってしまって申し訳ありませんでした;
これが私の精一杯でした…。
無類のハッピーエンド好きなもので、
この二人もなんとか一緒に幸せになっていてくれることを願います。
template : A Moveable Feast